1950年代から1970年代にかけた高度経済成長期により、東京を含んだ大都市、またその周辺には人口が集中し始めた。1960年代には三大都市圏への転入超過数(転入した数ー転出した数)は60万人を超え、都市化が郊外まで浸透し始めた。都心と郊外を結ぶ各私鉄・国鉄線の混雑は日に日に熾烈なものとなり、それは帝北電鉄も例外ではなかった。

 

 

帝北線は敷設当初より地域輸送を意識していなかったため、小さな駅だと周辺の開発があまり進んでいないところも多かった。しかしこの時期、1962年に完成した高曽根団地などに代表されるような団地の形成、また1967年の鳩ヶ谷市の市制執行に見られる人口の増加で、沿線で急速な宅地化が進行していた。帝北側も限界まで本数を詰めるなどの対策をしたが、毎朝のように積み残しができる超混雑路線へと変貌した。

 

 

 この過酷な朝ラッシュの輸送改善のため、長大編成の走行への対応工事を進めていくこととなる。もともと全線で20m車6両編成までの対応(貨物取扱駅など一部駅はこの限りではなかった)であったが、帝北上野駅の移転など大規模な工事を絡め、1973年には日東本線帝北上野~下総境町間と武州線で20m車8両編成まで対応、1978年には朝ラッシュ上りにおいて10両編成の運転を開始した。(下りは回送)

 

 

車両の増備にも力を入れた。1958年に1000系、1972年には5000系が登場し、輸送改善に大きく寄与した。この時期はとにかく車両不足で、従来の車両の車体だけを載せ替えた1080系の登場や、車両基地のキャパ不足で夜間の駅留置が多発していたことからも、なりふり構っていられなかった当時の状況がうかがえる。

 

 

 1980~90年代になるとさらなる郊外の都市化が進み、結城付近ではニュータウン開発に伴う線路の付け替えも発生した。通勤時間もそれに応じ伸びていく。宝珠花線沿線や日東本線下総境町以北からも東京への通勤需要が増し、その対策は神明町始発の快速急行の新たなる設定、宝珠花線への優等列車の直通などソフト面でのものにとどまらず、ハード面での改修も進められた。

 

 

その最たるものが営団(当時)湾岸線への直通、田端新町~武蔵戸塚間の高架複々線化である。複々線化工事を湾岸線の建設まで待ってられない帝北は、1985年に帝北上野の補助用ターミナルとして、将来来るかもしれない(この時点では未確定)地下鉄湾岸線の接続用支線として田端新町~新日暮里間を開通させ、1988年には江北~田端新町駅間の複々線が開業している。一方、1970年代より計画されてきた地下鉄湾岸線(架空路線。沿革はこちらを参照)は、紆余曲折ありつつも、1993年に新日暮里~数寄屋橋間が開業した。複々線化のほうはバブル経済崩壊による経営不振で建設に遅れが出たものの、1998年には鳩ヶ谷~江北間、2006年には武蔵戸塚~鳩ヶ谷間の複々線が完成し、大手私鉄の中でも長距離な部類である16.5kmに及ぶ複々線が完成した。