日東本

▲ 終点の帝北日光駅近くから眺めることができる山々。

 

 

 日東本線は、東京都台東区の帝北上野駅から江北・鳩ヶ谷・春日部・関宿・結城・宇都宮・徳次郎を通り、栃木県日光市の帝北日光駅までを結ぶ全長135kmの路線。私鉄の1路線としては日本一長い路線となっている。ラインカラーは萌葱色(#006e54)。現在帝北が抱える支線はすべてこの日東本線と線路がつながっており、また大師線を除くすべての路線と旅客営業で直通運転を行っている。

 

 起源は1910年、日東電鉄が上野山下町~日光間の路線敷設免許を獲得したことに始まる。当時の日本の主要輸出品である生糸・綿製品の輸送、利根川水系の水運業の代替のため、1915年、上野~境(現・下総境町)間を一気に開業させる。その後延伸を続け、1922年に上三川まで達するが、資金難や関東大震災からの復興のため延伸が厳しい状況となった。

 1915年、宇都宮石材軌道という会社が大谷石の輸送の効率化、旅客輸送を目的に、まず徳次郎~宇都宮間を普通鉄道で開業させる。この宇都宮石材軌道という会社、大谷石の輸送を目的に宇都宮市内に人車軌道を多数開業させていた。この普通鉄道の開業により大谷石の輸送が効率化、経営状態は俄然良くなり、1922年に軌道は日光まで到達する。1923年には、関東大震災による大谷石の需要の増加によって貨物輸送量は一時的に大幅に増えた。

 1930年、景気の悪化による日東電鉄の経営の悪化、東京への直通ルートを欲した宇都宮石材軌道(この時宇都宮石材軌道も、大谷石の需要が落ち着いたことや自動車の発達による輸送量低下により経営が傾き始めていた。)と日光への鉄路での到達を目指す日東電鉄という両社の利害の一致、国内の競合をやめ欧米列強へ団結して対立していこうとする国内の雰囲気も手伝って、両社の合併話が持ち上がる。当時日本は戦時体制へと時代が移り変わり始めていたことから、すぐに合併、戦時体制に突入する。

 その後、戦争が終わり、上三川~宇都宮間を結び旧2社線を連絡する計画が必然的に持ち上がる。終戦直後で資材がとんでもなく乏しい状況であったが、1948年何とか開通、この一本で結ばれた路線を「日東本線」と名付けた。

 

 通勤輸送から、日光・中禅寺湖への行楽輸送、また東京・宇都宮間の都市間輸送も担っており、日中でも列車密度がとても高い。日暮里~武蔵戸塚間が複々線となっていて、そのほかは全線複線である。種別は特急・快速急行・急行・区間急行・準急・区間準急・各停がある。

 沿線の堤根・神明町・徳次郎に車両基地を構える。江北・鳩ヶ谷・春日部で上野方に、結城団地で日光方に、武蔵戸塚・下総境町・石橋・宇都宮・徳次郎では両方向に折り返しできる。