とねがわ鉄道線の歴史

▲沿線は非常にのどか。列車はこの築堤の上を毎時1~2本程度走ってくる。

 とねがわ鉄道線の起源となる国鉄古河線は、茨城県の土浦から様々な幹線と接続しつつ埼玉県の飯能まで至る長大な路線計画の支線として計画されたのが始まりである。これらの路線は大正12年の改正鉄道敷設法別表にて予定線として「茨城県土浦ヨリ水海道、境、埼玉県久喜、鴻巣、坂戸ヲ経テ飯能ニ至ル鉄道 及水海道ヨリ分岐シテ佐貫ニ至ル鉄道 並境ヨリ分岐シテ古河ニ至ル鉄道」と示されていた。水運を通じて大きく発展してきた関宿・境に通じたばかりの日東電鉄(現在の帝北電鉄日東本線)にこれらの町の覇権を握られるのを鉄道省が嫌ったこと、また利根川岸の砂利輸送を目的として、第一期線として古河から境、境から高麗川(飯能)の区間の先行した建設が開始された。そして古河~下総境間が第一期線の中でもさらに先行して1930年に開業した。

 ところが、境から高麗川方面の建設は遅々として進まなかった。この路線の建設には、様々な幹線と接続し、都心を通らずとも幹線間の貨物輸送や旅客輸送が行えるような目的があったが、当時はその意義は薄かったこと、煙害を嫌った沿線民の反対運動があったこと、震災恐慌と金融恐慌の影響を受け、緊急性の低いこの路線の建設に対して鉄道省内でも反対意見があったことも一因であった。結局先述の区間以外は開業しないまま戦時体制となり、不要不急線として建設が凍結された。

 こうして取り残された古河~境間。目的の一つであった砂利採取がはじめは好調であったが、日東電鉄が砂利輸送を始めたことにより輸送量は激減、境以遠が開通しないことで貨物輸送のバイパスとしても機能せず、その存在意義はほぼ皆無に等しいものとなった。

 古河⇔境の旅客需要はある程度あることから、終戦後もしばらく国鉄線として姿を保っていたが、1986年に第三次廃止対象特定地方交通線に選定され、1988年9月21日にJRの路線としては廃止、第三セクター「とねがわ鉄道」として再出発した。この再出発に際し、とねがわ鉄道では新型車両・新駅を開業させた。

 昨今の少子高齢化に伴って輸送量は年々減少傾向にあるが、沿線に二つ高校があることによる学生の利用が好調で、第三セクター設立時の基金を少しずつ切り崩しつつも細々と営業している。近年では沿線にある公園とのタイアップや、珍駅名かつ縁起の良い「釈迦」駅にちなんだ記念切符の発売など、他の第三セクター鉄道に負けないような個性的な営業施策を行っている。